神秘の国ネパールへ:第五回 氷河地形〜オーバー4000メートルの奇景をゆく

朝起きてロッジを出たら、ランタンの山々が朝日に照らされて輝いている。トイレだけ済ませて急いでカメラを取りに戻り、撮影をしに外に出ると、その一瞬で山々はガスに覆われ全く見えなくなってる。変わりやすすぎるヒマラヤの天気。
雲の切れ目を狙って、ズキョッズキョッと撮影。


5月20日 キャンジン・リ

体調は絶不調。ただ横になっているだけでも頭痛がし、呼吸が乱れまくっているばかりか心拍数の時点で正常じゃなくて、高度順応ができていないことは明らかだ。しかし、ガネーシャが急かすのであまりゆっくりしていることはできない。
その前の晩は、ネパール人ガイドやポーターたちと、その雇い主二人の大人数でストーブを囲んだりした。来いよというから輪に入っていったんだけど、けして楽しいもんではなく、ネパール人たちがネパール語だけ使って会話しているもんだから雇い主たちは置いてけぼりで、同席してた白人男性(確かデンマーク人)なんか途中で地団駄踏んじゃったくらいで。
ガネーシャにしても、仲良さそうにしてたかと思いきやころころと態度を変えるの。ネパール人の友人がいる前では、特にそうだね。こんなやつと仲良くするなよ的なものでもあるのか、とにかく、そんなことが続くもんだからガネーシャたちのことが前ほどは好きじゃなくなってきた。
ともあれ、朝の七時台にロッジを出て、キャンジン・リの4200m地点に向かう。


どこを切り取っても絶景が広がっていてテンションが上がりまくるいっぽうで、急坂が続いたせいで呼吸は荒く、過度な酸欠による尿意が催されたり、軽い吐き気が続いたり。
ガネーシャはこちらを気遣う素振りを見せながらも、自分のペースでどんどん登っていってしまう。一定の距離が空いてしまうと立ち止まり、息を切らしているこちらをニコニコと振り返りながら「ゆっくりでいいですよ!」と言ってくるのが、本気でしんどい中で四〜五回も繰り返されると本気でキレてくるわけで、さっさとどこへなり行ってしまえとか思ってた。
しかし、頂上はもうすぐだ。


最後の一登り。

タルチョはためくピークへ。

ぐるり360度とランタンの山々を眺望することのできる、絶好のビューポイントだ。

「Welcome Nepal!」 ガネーシャは洒落たことを言うんだけれども、俺は苦虫を噛み潰したような表情。しかし眼前には、ランタン・リルン(7225m)が聳え立っている。みるみる気持ちが解れていくのがわかる。


尾根の方角がキャンジン・リ登山コース。ちょこっとだけ進んでみたけど、「これは無理だ」と思って素直に下ることにした。

オーバー4000メートルの氷河地形

村に戻ると、世にも美しい馬がスタンバってた。

観光客用の馬なんだって。いいなー、馬の旅なんて最高だろうな。
ロッジでお昼ごはんを食べ、ヤクの毛で出来たごわごわしたマフラーをお土産に買い、オーナーさんやおかみさんにお別れをして山を下る。気温がめちゃくちゃ低い中で水みたいなシャワーを浴びる羽目になったこと以外は、トイレも洋式だし、いい宿だったなあと思う。
そうそう、前の晩はオーナーさんに捕まって、日本語の練習台にされたの。なんでもカトマンドゥに日本人の恋人がいるらしくて、はやく上手く話せるようになりたいんだって。でもあのチンプンカンプンさじゃ、当分英語で会話するしかないだろうなあ。

「じゃあねー!」

ふたたびランタン

ゴラタベラまでの道行きで、ガネーシャとはほとんど口を利かなくなっていた。もっとも、仲のいい友達とでもずっと一緒にいれば口を利かなくなるもんなんだけど、この場合はすっかり関係が冷え切っている感じ。
ヤクのヨーグルトの兄ちゃんに「帰りも寄ってきなよ」と言われたりもしたけど、ランタンまでは休憩なしで一気に辿り着けてしまった。ランタンは相変わらずの長閑な静けさに包まれてて、メヘェェというヤギの声が聞こえてきたくらいだったかな。
で、冷え切った関係のまま先を急ぐのも寂しい気がしたので、山を降りたらどこへ行こうかなんて、ガイドブックを指差しながらガネーシャに相談してみることにした。困った時の観光トークというか、プランを話し合っているとやっぱり多少は話が盛り上がってきて、ジャナクプルというインド寄りにある街の話をしていたときに、「じゃあ一緒に行ってあげましょうか、ナイトバスは危ないし、あの辺は英語も通じないですし」みたいなことを言ってくれた。さすがにそれは過分だと思ったので、いいですねえとだけ言ってぼやかしておいたんだけど。
そのとき、ロッジの陰から格の高そうな老婆が姿を現した。チベット系の民族衣装にあわせて登山用のぎらぎらしたゴーグルを装着し、「オンマニペメフム・オーム」という真言を繰り返しながら携帯用のマニ車をぐるぐる回しているその有様が、コンピューターおばあちゃんを軽く凌駕するサイバーパンクな風格を漂わせている。思わせぶりに現れたこの老婆。どう考えても只者ではないのだが、そんな老婆を尻目に、俺とガネーシャは山を下っていく。

ふたたびゴラタベラ

ロッジを目前として小雨に降られてしまい、慌てて駆け込むはめになった。行きは休憩のみだったここのロッジに、今回は宿泊することになる。一気に1200メートルを下ったおかげか、高山病の症状も完全に消えた。
小さな女の子が、うさぎの縫いぐるみで遊びながら、ニコニコーッとこちらに反応を求めてきている。盛り上がりどころが一切不明だから、「オーゥ」とか「HAHAHAHA」という煮え切らない合いの手を入れながら俺はニコニコしているしかなかった。
部屋にこもって一人きりになり、さっきガネーシャが言った言葉を反芻してみる。一緒に行ってあげますよ云々の件なんだけど、もちろん単なる友情や善意ではなくて、ガイド料が懐に入るからうんぬんの打算も込みになっているんだろうとは思う。でもやっぱり、その先に飛躍の可能性みたいなものがキラキラしているのが見えて仕方なかったから、カトマンドゥに戻ってから飯でも一緒にどうかなんて試しに誘ってみることにした。どうしたことか、女の子を誘うときの二倍は悩んだと思う。
すると、ガネーシャの表情は一気に明るくなった。色んなものが氷解して、急に心を開いてくれた感じ。前みたいにガイドブックを見ながら色んな話で盛り上がったり、『上を向いて歩こう』や喜納 昌吉の『花』を一緒に歌ったりしてたら、でもなぜか、ロッジのオーナーさんが「読め」と言ってガネーシャに最新の週刊誌を手渡したりしたせいで、会話は遮断されてしまう。
日本人(もしくは俺のようなアホ)と仲良くするのはよくないというような暗黙の何かがあって、だから時々態度をよそよそしくしたり、ここのオーナーさんみたいに会話を遮るような真似をしてくる人がいるのかもしれない。よくわからん。
その日はとても疲れていたから、美味しいツナポテトピザをご馳走になり、アイリッシュコーヒーにちょっと似てるムスタンコーヒーというアルコール入りの飲み物で体を温めてから、蝋燭の明かりで日記を書いたりしているうちにいつの間にか眠りに落ちてた。

5月21日 ゴラタベラ〜シャブルベンシ

目を覚ますと顔がパンパンに腫れてて、どうも日焼けをしたらしいんだけど、右まぶたが開かなくなっているという。何が起こったんだと鏡で顔を確認してみたら、全体的に真っ赤になっているばかりか、右まぶたなどはお岩さんのようになっていて気味が悪い。
顔面と手の甲だけが日焼けしているというのは、そこだけ露出していたのはキャンジン・リにいた時の格好がそうだ。日焼け止めを塗らずに紫外線の強い高山へ行ってしまったのが多分まずくて、腫れてしまった右まぶたについてはカメラのファインダーから差し込む光にやられてしまったのだろう。とにかく酷い有様で、生きるに堪えない。

スパイダマーンは行くよ

そこへ昨日の女の子が、「スパイダマーン、スパイダマーン、ウィンドウウィンドウ♪ スパイダマーン」というオリジナルソングをニコニコと歌いかけてきた。
先にも述べたけどここの住人は全員がオリジナルソングを保有していて、オーナーさんなんかは、ストーブの扉を開ける時に「アチッ」ってなったら「アチッ、チッチッ♪ チチッチ〜♪」とその瞬間に歌を生み出してしまうほどの生粋の芸術家だったりする。
でも、なんで俺に向かってスパイダマーン♪なんて歌いかけてくるんだろう。顔が真っ赤だからスパイダマーンなのかな…。ウインドウというのは、初めてここに来たときに窓から外を眺めてばかりいたから、ウインドウなのかな…よくわからん。
とにかくお嬢ちゃん、スパイダマーンはもう行くよ。
でね、その日もガネーシャと色々しゃべくっていたら、オーナーさんも次第に興味深げにこっちを見るようになってきて、最後には俺といるときに『上を向いて歩こう』の鼻歌をこそっと奏でてくれたりもした。もう完全に言葉を失ってしまって、その時の気持ちをなんと言って表現すればよいのか、今となってもまだわからない。

生きて帰るまでがトレッキング

雨で滑りやすくなっている急坂には、そのうえ落ち葉が敷き詰められてた。八時間にも及ぶ道行きの中で、なんどすっ転んで肘や膝を擦り剥いたものかわからない。もともと運動神経はよくないんだけど、これは酷すぎる。
傷口はランタン・コーラの水で洗い流したりしたんだけど、この川には上流の生活廃水が流れ込んでいるはずだ。これまで自分がしてきたウンコを傷口に摺り込んでいるようなもので、何も考えなければいいんだけど、考えてしまったせいでテンションが下がった。
とにもかくにもシャブルベンシまでは戻り、ぐっすり眠って翌朝のバスを待つ。ホテルのトイレで踏ん張っていたら半裸でへろへろしていた外人グループに電気を消され、インド式トイレでこの状態は本当に危険なので「ヘイ!」「ヘーイ!」と叫んだらまた点けてもらえた。とにかく全体的に油断ができない。
ちなみに、トイレットペーパーは最後まで手放せなかった。