崖の上のポニョ


ポニョだー!
こんなに気味が悪いヒロインで大丈夫なの!?と物議をかもしているポニョだけども、いやあ面白かった。理屈とかじゃないんだよね。これは千と千尋以降既に表れていた傾向なんだけども、映画を成り立たせている論理的な枠組みをこれまで以上に突き崩し、アニメーションとしての快楽をよりラディカルに追い求めていこうとしている。絵が動いているということの純粋な楽しさをよくもまあここまで突き詰められたなあというか、驚嘆に呑まれてしまった。

主人公の宗介のお父さんは船乗りで、なかなか家に帰ってくることができない。宗介のモデルが実子の吾朗であるというのは宮崎駿自身が口にしていることで、宗介がおかれた少し寂しい状況は、事情を知る者から見れば吾朗の幼少期にそのままオーバーラップしてくる。
「二度と吾朗みたいな子供を作らないために」
宮崎駿は、そんなことをコメントしていたらしい。父親がアニメスタジオに篭りきりで帰ってこないものだから、吾朗は父親が制作したアニメーションを父親代わりとして育つしかなかった。ところが『ゲド戦記』を観た駿は、自らの不甲斐なさを棚にあげ、「まるで大人になっていない」とのコメントさえ残している。ひどい話だ。
「二度と吾朗みたいな子供を作らないために」
ひどい話だ…。
夫が帰ってこない寂しさを、宗介のお母さんは「私はー元気ー♪」とトトロの歌をうたって乗り切ろうとする。ちょっぴり切ないエピソードなんだけれども、駿にとってはその程度ならまだマシというか、そうであってくれればまだ助かるよ…というところなのだろう。トトロのぬいぐるみの腹をかっさばき、四肢をもいだうえで柱に釘で打ちつけるくらいのことは本当はしていたかもしれない。
宗介にはしかしポニョがいて、ポニョやフジモトが起こした素敵な魔法によって世界が少しだけにぎやかになってくれたから、お父さんなんかいなくても寂しくはなかった。*1

阿佐ヶ谷の七夕まで、あと少し。

*1:人魚は足を生やして人間と恋をすることができるのかもしれないが、コナンやナウシカやパズーがブラウン管から出てくることはできない