世界最高の山、サガルマータを見下ろして飛ぶ60分


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ブッダエアーの小型機から、エベレストを見下ろす。その直後に、空港の側にある火葬の寺院パシュパティナートを見学した。
滑走路を飛び立つ飛行機と、火葬によって物質性から解き放たれ、天にのぼってゆく魂。偶然かもしれないが、空へと向かう動線が1つの区画に集められている。
前回:女神カーリーの供物と、カトマンドゥの熱い夜

6月1日

タクシーを飛ばしてトリブヴァン国際空港へ。国内線のターミナルで降ろしてもらい、手荷物検査やチェックインの手続きを進めた。ネットカフェから手配した時のやり方がまずかったらしく、予約したはずの座席がキャンセルされてしまっている。担当が話のわかる方だったから直後の便にねじ込んでもらえてよかったようなものの、危なかったです。

マウンテンフライト

国内線のターミナルには、渋いデザインの小型機が何機も待機している。航空会社の名前は、ブッダエアー、シータエアー、アグニエアー、イエティ・エアラインズといった具合に神話やUMAなどになぞらえてあってダサかっこいい。
マウンテンフライトをやっているのは二社あって、ブッダエアーのほうが近くまで寄ると聞いていたのでそちらを選んだ。シートに座ってベルトをかけて、グレートな写真撮るぞーと息巻いてウエストバッグからいざカメラを取り出してみると、バッテリーが入っていなくて電源が入らない。

今回の旅行記は、テキストベースでお送りします。

写真はないけど、自分が見聞きしたことがみなさんの頭のなかにも像を結ぶよう、出来るだけ努力してみたいと思います。

恰幅のいい子どもが邪魔をする

ブッダエアーの旅客機は、通路をはさんで両サイドに1席ずつという小さくてシンプルなものでした。
同乗していたのはほとんどが白人で、現地の人は1家族だけいたんだけども、1人あたま161ドルも払って1時間ぽっちの娯楽に興じることのできるような人間は現地でいえば大金持ちだけ。
そこの家の…よく太った、恰幅のいい、ハリー・ポッターで言えばダドリー・ダーズリーのような印象を与えるよく太った…恰幅のいい子どもが、俺の逆サイドに陣取ってしまった。その時点から不吉な予感はしていたんだけど、窓に張り付いていて大張り切りで、ヒマラヤの山々が見える側の窓を独り占めにしてしまっているせいで、こちらサイドからは何も見ることができません。
そのガキのシャツが、赤いんだけども、青い空が、赤いシャツに完全に覆われてしまっている。こんなガキに、赤いシャツに、ヒマラヤの青い空が覆われてしまっているなんて…。服は黄色だったかもしれない。黄色のシャツと脂肪に包まれた肉体が手前にあるせいで、眩いほどのヒマラヤの空が覆い隠されてしまっているのです。
ジェイソン・ジェイムズ・リクター
そのガキは、喩えがわかりづらいかもしれませんが、ネバーエンディングストーリー3当時の朽ち果てたバスチアンのごとき印象だった。くせのある髪をヤマアラシのように逆立たせており、苦労を知らない人間特有の無自覚な傲慢さのにじんだ顔で、恰幅がよく、シャツの色は緑だったでしょうか。他のグループから「エベレスト! ローツェ!」と楽しそうな歓声があげられるのを尻目に、Google Mapでも充分楽しめそうな畑や丘陵を「ああ綺麗だなあ」と感激しつつ俺は眺めていました。

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バスチアンを制した

インド的な風貌をしたスチュワーデスが一人一人を操縦席に招きはじめ、乗客が行きつ戻りつしているのをぼんやり眺めているうちに自分の番がやってきた。シートに掴まりながらよろよろと機内を縦断し、さあどうぞと促されるがまま辺りをうかがうと、操縦席の正面の窓、180度確保された広い視野を埋め尽くすようにしてヒマラヤ山脈が広がっている。視界正面に全てを捉えきることのできる絶好のポジションから、霞んだターコイズの空や、雲海に取り巻かれた白い峰々を睥睨することができた。
そのあたりで飛行機は旋回をはじめ、おかげでヒマラヤ山脈はこちら側の窓へとやってきました。俺はその瞬間からもう窓に釘付けで、ガキには見せまいとばかりに張り付いて、美しい光景を独り占めです。

神々の座

緑豊かな麓の丘が、巨人の指先で摘みあげられたような形で励起してゆき、尾根を形成しはじめる。高度が上がるにしたがって、植生は疎らな高山のそれへと推移してゆき、草木もほとんど見られなくなります。そこへ白く影を投げかけるようにして雲海がたなびきはじめ、ひとたび覆い隠された尾根は、雲の層を突き抜けるなり純白に変わる。清冽な空気をまといつかせた白銀のピークが、陽の光に煌いています。
それさえ唯一のピークではない。同じような過程を経て励起した峰が辺りには連なっており、いずれも7-8000メートルを越えている。蒼天をいだく神々の座が、世界の頂天を競っているかのようでした。

宇宙頭サガルマータ

その様子を遠巻きに眺めるようにして、積雲を取り付かせた一つのピークがひときわ美しく煌いていました。前景から後景に向かって、いくつものピークが引き違いに重なっているその中枢において。
「エベレストですよ。ご覧になられましたか?」
窓の外を指さしながら、スチュワーデスが語りかけてきました。

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「えっ、どれですか?」
賢明な読者のみなさんには、どの山がエベレストなのかはもうお分かりですよね。しかし、この時の俺にはさっぱり把握することができませんでした。ずっと昔からそうなんですが、指さしで「あれ」と言われたときに、指示されている対象を特定することがどうしても苦手なので。
「ほらほら、あれです!」
「…わからない、どれですか? あの、フライトマップはありますか」
スチュワーデスは、航路図を俺にだけ配り忘れている。
「まだお渡ししていませんでしたか…、申し訳ありません」
彼女は悲しそうに眉をたわめ、操縦席に向かって足を速めました。
それにしても、どの山がエベレストだと言うんだろう。どの山も一様に美しいものだから、どれがエベレストなどということは、美しさを元に断定することが難しい。
(エベレストよ! お前は、なにをもってever-estだと言うのか…)
そんな芝居じみたことは、さすがに思いませんでしたが。
エベレストのことをネパール語ではサガルマータと言って、サンスクリット語由来で”宇宙の頭”を意味するらしい。世界どころか宇宙の最高峰である以上、視界に入る中で一番高い山を見つけ出せばよさそうなものなんだけど、この高度から窺う山々の高度差なんて誤差の範囲でしかなかった。
スチュワーデスが持ってきてくれたフライトマップには、山々の形や位置関係がイラストで明快に記されていました。これを使うことで、エベレストがどれなのかをすぐに知ることができた。予感はしていたけれども、やや遠巻きに、眺め下ろすように聳えていたピークこそエベレストだったわけです…。*1
照合はできたけれども、そのシンプルな事実を認識することがなかなかできない。ここに来るまでにエベレストにまつわる有象無象の観念に触れてきてしまったせいで、俺の脳内エベレストは妄想で肥大しきっている。それはヒラリーとテンジンのエベレストでもあり、植村直巳のエベレストでもあった。ところが、眼前のエベレストは孤高な岩と氷の塊でしかないのです。
飛行機が過ぎ去るのに伴って後方に流れていくエベレストを、できるだけ精細に記憶に留めんと思ってしつこく目で追い続けてみる。
ヒマラヤのピークは積雲と層状雲の中間に位置しており、飛行機が飛んでいるのは、それより上空にあたる高度9000〜1万メートルの周辺でした。頭上には薄く刷毛で引いたような層状雲が流れており、二次元の構造物かと見まがうほどに、まるで厚みが感じられなかった。そこに存在していること自体が不思議に思えるほどの希薄さで、映画などでよく使われている、タイトルバックに雲が流れる演出ほどの確からしさしかなく。未知の物たちに包囲され、世界から疎外されてしまったかのような現実みのなさに、血潮がざわめき指先がチリチリとしはじめました。

ランタンを見下ろす

ヒマラヤの山々の外れには、ガネーシャとともに見上げながら歩いたランタン・リルンを窺うこともできた。雲に覆い隠されていたから、ヤクたちが牧草を食んでいるカルカの様子まで窺うことはできなかったけれども。

帰還

そして、飛行機は滑走路へと引き返してゆきます。
「Great experience!」
飛行機から降りるときに、乗客の1人が漏らした言葉。

ブッダエアー


このビデオがたぶん一番いいけど、それでも全然よさが伝わらない。マウンテンフライトは、Buddha Airのサイトから予約可。でもゲストハウスとかホテルで頼んだほうが早いです。

*1:大きく中央に表示されているピークがそうです。※地球の歩き方のトレッカー用地図を元に特定