連夜の悪夢

ある時期、恐ろしい夢ばかりを毎日のように見た。

殺人鬼に追われどおしの夢が、なんと言っても恐ろしい。そのときの夢には、刃物を持った女が出てきた。



女はその顔をノイズに覆われており、詳しく表情をうかがうことができない。顔面だけが光を屈曲させる複雑なパターンのノイズによって歪まされている感じで、女が移動をすると、女を取り巻くノイズもついて回る。ノイズは刻一刻と波長を変えているがために、女の顔は瞬間ごとに様相を異ならせていく。それは到底美しいものではなく、壊れたビデオのように不穏不吉な不浄さを醸し出している。
動きがのんびりとしているとはいえ、疲れを感じることもないのか、女は休むことなく機械的に接近してくる。どこの国に逃げても同じで、徒歩の速さで必ず追いついてきて僕のことを刺し殺そうとする。その性質が手に取るように把握できたのは、夢見の主体ならではの超越した現状認識力により、その女の全体をたちどころに把握することができたからだ。どこへ逃げても結果は同じで、死の恐怖からは常に逃れようもなく、もっとも、遠くに逃げればそれだけ時間が稼げるというのは事実だったので、女からひたすら遠ざかることによってその長い遍歴は開始された。
南国の浅瀬のような場所や、都心の住宅街も通り抜けた。高度成長期の工業地帯のような場所も通った。寝込みの隙に近づかれ、まといついたノイズが青空をかき乱しているのを横目で仰ぎながら、裏口から飛び出してその工業地帯に奥深くへと逃げ込みもした。麓の街から中央部分に近づくに従って塔状に励起し、よじれ上がっていくという超巨大な構造体だった。工業用の煙突やらパイプやらがあちらこちらから突き出して、蒸気は濛々、食堂や安宿がひしめき高く伸びあがっていくその中を、物影に身を潜めてノイズ女をやり過ごしながら上層を目指した。けれども逃れられず、先のことは知れていた。上に行けば束の間の生存は確保されるけれども、上に行けば行くほど逃げ場がなくなっていくことは明白で、僕はそのことに気がついているにも関わらず塔を降りることができない。戻ろうとするとノイズ女は僕の存在を素早く嗅ぎつけ、刃物を持って両肩を揺らしながらゆらゆらと歩いてくる。まるで、降りようという意思のもとへ瞬間移動してくるみたいに。だから最終的には、死の袋小路へと前進することによって虚しく生存を確保していく他はない。

別のあるときには、地獄の夢を見た。地下の直径数キロにも及ぶ大空洞の壁面から天井から床から、小鬼の形をした悪魔がびっしりと張り付いていて、僕たちはその調査のためにやってきた調査隊で、地獄専門家の僕と、地獄研究家の彼女との二人で今この大空洞を眺めている。地下にこうした場所が現れたことが、終末の接近を示唆していた。小鬼はただひしめきあっているわけなのだが、存在し続けているというそれだけのことをもって遠方の地獄をたぐり寄せる。鬼たちは、有史以前の世界の呪力を身にまといつかせている。もう取り返しはつかず、この世は終わりを迎えるしかなくなっているという段階だった。
彼女と愛情を確かめあい、その必然的な流れの元にまじわりを交わしたのは人類最後の晩だった。リラックスした恰好で重なり、ゆっくりとまじわり、心地よい倦怠のなかで、腕や足を絡みつかせて眠る。
そして、大空洞に洪水が押し寄せてきた。割れるような頭痛に苛まれながら身を擡げると、彼女はすでにいなくなっている。ここにいないということは、死んだのだった。現物を見たわけではないが、それほど見つかりにくくない場所に死体が転がっているということだけはわかる。洪水は、彼女だけを連れて行ってしまった。
気が付くとそこは地獄の拷問部屋で、僕は拷問を受けていた。錆びた鋼鉄に囲まれた部屋で、出ることはかなわない。それは僕自身によって自発的におこなわれる拷問だった。十字架の取っ手に力を込めると、ごろりごろりと音を立てて軸棒は回り続ける。軸の回転は、僕が回すことによって次第に速くなった。僕の動きも同様で、その回転に釣られて速くなった。僕の肉体にかかる負荷と圧力は、加速度的に高まっていく。圧死して肉体を四散させる末期が僕には見えっていたのだが、意思の統制を奪われているから、十字架を自発的に回し続け死へと加速していくほかはない。胸腔が潰れて呼吸が停止し、圧力で眼球がひしゃげても僕は高速回転を続ける。ある段階を越えたとき、僕の意識と肉体はプレス機にかけられた廃棄物のようにぐきりごきゃりと折り畳まれ、折畳まれ、折畳まれて一点収縮。収縮して、死んだ。ウヒャヒャヒャヒャという狂った笑い声が脳裏にこだまし、目を覚ますと拷問の最初に戻っている。ウヒャヒャヒャヒャ、ごとり、ごとり、回す。ウヒャヒャヒャヒャ、ごとり、僕は回す。どすっ、どどど、ぶぃん。速度と圧力とが高まり、ウヒャヒャヒャヒャ、ごとり、ごきゅり、回す。ウヒャヒャヒャヒャヒャッ! ごとんごとんごとんごとん、回す、回す、ウヒャヒャヒャヒャ、ごとんごとんごとんごとんとんとんとんとんとんとん……ごきっ、ごきゃきゃきゃきゃっ、
一点収縮死、拷問の最初に戻っている。

また別のあるときは、狂人による処刑を待つばかりの、哀れな人々の輪の中にいた。日本刀を持った狂人を囲むような形で、車座となった虜囚たちがひとりひとり首を刎ねられていく。恐怖におびえる声も断末魔の絶叫もなく、それは淡々と続いていく。死と薄衣一枚を隔てた静かなあきらめが広がっているばかりで、これから死ぬことへの恐怖は揮発しきっていた。次々に首が落とされ、恐るべき性急さで順番が近づいてくる。死を想う暇もない。刀が降り下され、僕の首は切断される。血を噴き地べたに転がり落ちながらも、僕はその狂人の宴にくまなく視線を走らせてゆく。ごろごろごろと転がりながら、犠牲者の輪とその中央に立つ処刑者を全容を見届けようとする。が、末端神経が冷えきっていくのに伴い感覚が消えゆくため、僕は、見る物を見届けることができない。生温かい麻痺が中枢まで届くと、意識はたちどころに消えた。
そして、今しがた首を刎ねられた男――死んだ僕――の隣で、吹き上がる血しぶきを頬に感じているのは僕であった。乗り移りでもしたのだろうか、つい今首を刎ねられて死んだことは確かなのだが、次はまた、僕が首を刎ねられる番だった。緩慢な足取りで彷徨っていた処刑者が、目の前に居場所を定め、数瞬ののち一閃。
首を刎ねられ、刎ねられて転がる首となり、死に、意識が戻ると、また次の虜囚に乗り移って死の現場を目の当たりにしていた。辺りには血の匂いが充満し、切り取られた頭部が無造作にいくつも転がっている。僕は女の虜囚だった。狂った処刑者は、女の首も平等に刎ねた。そして僕は、更にその隣の虜囚へと乗り移り、次に処刑される者の立場から今しがたの惨劇の模様を目撃していた。
狂人が全員の首を刎ね終わると、しかし、次の犠牲者の首が復活している。だからこの処刑劇に終わりはなく、僕は殺される瞬間の犠牲者に次々と憑依し、何度でも、きりがなく首を落とされた。気が狂いそうなほどの長大な時間と、現実と見分けがつかない切迫したリアリティをもって儀式は継続された。

またあるときには、土砂崩れにより友達が全員死んでしまった。もちろん、これは夢なのだ。ひとり森を抜けて傷だらけになりながら事故現場にたどり着き、素手で掻いて爪をささくれだたせながら土砂を掘り進めていくと、何時間くらい経ったろうか、腐乱した膿のような友人の遺体と再開することができた。どろりと溶け腐り、ゲルの中に肉体の各パーツが混交しながらたゆたっているそれを、崩さないようにと僕は丁寧に掘り出し、脇の固い土の上に安置する。それが済むと、腐敗臭に息が詰まりそうになりながらも、また次の遺体の掘り出しにかかる。

また別のあるときには、空を飛ぶ夢を見た。空は白くて乾ききっており、閉塞している。高みに近づくと叩き落とされるこの世界で、僕は四肢を踏ん張って中空に留まろうとするのだが、地上すれすれまで墜落させられてしまう。軋んで動かなくなりつつある体で助走をつけ、再び中空に至ろうとするのだが、足と上体がぐらついて速力が得られない。息が苦しくてつまりそうで、酸欠だった。とにかく、死にたかった。やっと空に戻ったところで一分を待たず叩き落とされるし、そもそも、死にたいのにどうしてまだ飛ぼうとしているのだろう。
度々見るような飛ぶ夢と異なっているのは、飛翔という行為自体に夢も希望もつきまとわないというところで、息苦しいばかりであった。束の間中空に留まれたところで、叩き落とされないようにするためには狂おしいほどの集中力が要求され、一瞬でも気を抜くなり奈落まで落とされる。高みに近づこうとしては叩き落とされるという繰り返しが何十回何百回と続いたところで、僕は目を醒ました。この世の裏側にある絶望や悪意の全容を見て取ったような気がして、すぐに忘れなければと思い跳ね起きて外の空気を吸うために飛び出したのだが、夢で見た絶望は現実にどこまでも広がっていた。

そんな夢が、何年ものあいだ毎日のように続いた。