20050518 ホッキョククジラの撮影を敢行する

 床が水浸しとなった、校舎のような建物の廊下を僕は歩いている。実はその廊下はケイジの艀【はしけ】だったらしく、部屋として仕切られた向こう側には極地地方を思わせる広大な海がひろがっている。僕はそこで祖母から年代物の銀塩カメラを手渡され、この近辺に住むホッキョククジラを写真に収めるようにと指示された。お節介な祖母は露光時間まで事細かに指定し、カメラの設定までやってくれたうえで、これ以上はいじるなという不躾な念押しまでして去っていった。

 夜明けを思わせる空。水平線から漏れてくる、細長い帯状の陽光が僕の目を射る。水面は暗がりとなっており、まばゆい光に目隠しされてしまっている僕はその様子を詳しくうかがうことができない。いつしか僕は、その場所を海そのものとして知覚していた。限定されていたはずのケイジ内部の空間は、のぞき込んだ途端に無限の広がりを持ちはじめている。

 波が打ち寄せてきており、艀の端を乗り越えては僕の爪先を濡らした。足場は安定しているものの、いつ足を滑らせて落ちるとも知れず、僕はたえず緊張を強いられている。クジラの巨体を思うと、この足場はあまりにも脆弱だ。目の前の海のどこかには、確かにクジラが存在している。クジラの息づかいを僕は感じとっている。

 目が慣れてきた頃合いを見はからい、ファインダーを太陽の方角に向けると、ちょうど黒い巨大な影が水面に浮かびあがったところだった。うっそりとして艶はなく、大きい。体長 10メートルは優に越えているだろう。指示されていたのはホッキョククジラだったが、その外見はマッコウクジラにより近い。そして驚いたことに、クジラの背中には少年が寝そべっていた。逆光で容貌をうかがうことはできないものの、紛れもなく少年の姿をしている。が、それは肉や人格をもった存在ではなく、一個の記号としてそこにただ貼りついている。僕は彼のことを亡霊のように知覚している。

 僕はクジラと少年とをファインダーの枠内におさめ、慎重にシャッターに指をかけた。しかしこちらに気付いたクジラは、撮影を阻止せんとばかりに、四角い頭部を振りかざしながら猛スピードで突進してきた。慌てて艀を走って逃げ、寸前で避ける。クジラはけたたましい水しぶきを立てながら、僕を追いかけ、ケイジ前の通路をうろついている。どうやら僕のことを仕留めたがっているようだ。

 幸運にも、クジラの執着心はそれほど強くはなかった。しばらくするとこちらに興味を失い、クジラはケイジの中へと戻っていった。

 次こそは失敗しない。僕は陽光によって包み隠された水面の暗がりのなかに、クジラと少年の姿を探しあてた。そして彼らをファインダーの中央に捉えると、逃げ出す瞬間の体のうごきを明確にイメージしながら――おもむろにシャッターを切った。